後三年の役 あらまし
 
 

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 平安の時代、出羽の清原氏、陸奥の安倍氏というこの地方を支配していた豪族がいました。ところが、「前九年の役(1051〜1062年)」「後三年の役(1083〜1087年)」という奥羽を舞台とする二つの歴史に残る大きな合戦があいついで起こります。
 前九年の役は、永承六年(1051年)多賀国府にいた将軍源頼義(よりよし)、義家(よしいえ)親子が出羽の豪族清原氏の助けをかりて、陸奥の豪族安倍氏を滅亡に追い込んだ「北方の王者」の交代劇ともいえる戦いでした。
 この戦いで、清原氏は、安倍氏の領地をあわせ奥羽に強大な支配力をうちたてました。ところが二十年後複雑な血縁が絡み合う清原一族の間に内紛が生じました。この内紛にうまく介入したのが源義家でした。長男真衛(さねひら)が病死し、いったん収まるかにみえた内紛でしたが、今度は領土の配分をめぐって、家衡(いえひら)、清衡(きよひら)の異父兄弟が争います。妻子を弟家衡に殺された清衡は、源義家に助けを求めました。こうして、「後三年の役」と呼ばれる戦いの火ぶたが奥羽の地に再び切られたのです。
 

「後三年合戦絵詞」 戎谷南山筆
 「後三年合戦絵詞」 戎谷南山筆

 沼の柵(雄物川)にたてこもり、義家軍を退けた家衡は、叔父武衡(たけひら)のすすめにより、難攻不落といわれる金沢柵に移りました。ところが、実弟義光(よしみつ)の参戦で意気上がる義家軍の執拗な攻撃や、兵糧攻めにあい、必死の防戦もむなしく、金沢柵は落ち、家衡、武衡は捕らえられ合戦は終わりました。奥羽の長い戦乱の時代は清原氏の滅亡とともにひとまず幕を閉じることと成るのです。
 後世に、「後三年合戦絵詞」として、絵巻に残された、この合戦は、「雁行の乱れ」「片目のかじか」など、数々の伝説を伝え、今でも語りつがれています。
 源義家も京都に帰り、新たにこの地方に君臨したのは清衡でした。姓を「清原」から「藤原」へ改めた清衡は、以後、百年にわたる平泉黄金文化のいしずえを築いていったのです。
 
 



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「後三年の役 古戦場 平安の風わたる公園(横手市)」より