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「後三年合戦絵詞」 戎谷南山筆
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《「後三年の役と金沢(後三年の役金沢資料館)」の一部を抜粋しております。》
前九年の役の梗概
九世紀初め(802年)征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城(水沢市)志波城(盛岡市?)を造営し、鎮守府(古代蝦夷征伐のための官府)を多賀城(多賀城市)から胆沢城に移すに及んで北上川中流域の征夷開拓がすすみ、「奥六郡」(岩手、紫波、稗貫、胆沢、江刺、和賀)が建置された。その「俘囚の長」(朝廷の支配下になった蝦夷の長、「奥六郡の司」(郡司)となったのが安倍氏であり、その安倍氏は忠頼(ただより)、忠良(ただよし)、頼良(よりよし 後に頼時に改める)の三代数十年にわたって奥六郡を有するまでに成長した。更に勢力を増し衣川(平泉附近)を越えて南進するに及んで陸奥守藤原登任(ふじわらなりとう)は断固阻止せんとし、出羽秋田城介平重成(たいらのしげなり)に援助を求めながら共に鬼切部(現鬼首)で戦ったが、この政府軍「敗績し、死者甚だ多し」という。そこで政府は源氏の棟梁源頼義(よりよし)を陸奥守兼鎮守府将軍として派遣すると安倍氏は源氏の名声にすぐ服属を誓い、同時に罪もゆるされた。陸奥国は頼義の国府在任中は平穏であった。頼義の任期が終わろうとして胆沢城から多賀城へ帰る途中の阿久利川(一関市)で野営中「夜襲を受けた」と藤原光貞(みつさだ)が告げ、犯人は「安倍貞任(さだとう)であろう」という言を信じて、ひたすら恭順の意味を示してきた安倍氏と源氏との戦端が開かれたのである。発端は不可解な阿久利川事件であった。源氏は歩騎数万、優勢に戦を進めたが安倍氏の大将頼時は鳥海柵(とりのみのき 岩手県江刺郡金ヶ崎)附近で流れ矢にあたり戦死、頼義は安倍氏討伐の宣旨(朝廷の命令)を受けていたので早速頼時の敗死を報告し、更に子貞任・宗任(むねとう)らを討つことを申請した。しかし土着の安倍氏の結束は固く、河崎柵(かわさきのき 東磐井郡)に結集、源氏軍を黄海(きのみ 同郡東部藤沢町)で追撃、旧暦十一月厳冬風雪の中、重囲にあって源軍最大の危機に陥る。しかし十九歳義家の勇猛果敢な活躍により九死に一生を得る。貞任らの勢いはますます盛んとなる中で源氏はこの窮状打開のため最後の手段として「夷は夷を以って制す」の方法をとり、出羽仙北三郡(雄勝、平鹿、仙北)の俘囚長清原氏に応援を求めるのである。十一世紀中頃(康平五年 1062年)清原武則(たけのり)は同族と共に一万余の兵を率いて出陣、源氏・清原混成部隊はわずか一ヶ月で難攻の小松柵(一関市)と安倍軍のゲリラ戦に勝ち天下の要塞衣川関の戦でも大勝、最後の拠点厨川柵(くりやがわのき 盛岡市の西北)で安倍貞任・宗任軍は、地獄絵の中に落ち安倍氏は滅亡したのである。
源氏の危機を救った清原武則(きよはらのたけのり)は翌年前九年の役の功により従五位下鎮守府将軍となり、俘囚長出身としては最初である破格の栄誉を得ると共に、支配地域は雄勝・平鹿・山本(現仙北)の三郡に陸奥の奥六軍をあわせもつ飛躍的な成長を遂げたのである。前九年の役は一人清原氏の繁栄をもって終わるのであった。頼義は正四位下伊予守に義家は従五位下出羽守と昇進した。
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「後三年合戦絵詞」絵巻より壁画レリーフ |
後三年の役
前九年の役の終了した十一世紀中ごろ、清原氏は従来の支配地だった出羽山北三郡(雄勝、平鹿、仙北)に陸奥の奥六郡を加えて強大な勢力となり、武則(たけのり)、武貞(たけさだ)、真衝(さねひら)の三代約二十年を経過した。三代真衝の代になると「勢威父祖にすぐれ、永保のころには当国のうち、みな従者となれり」というほどに発展成長をとげ、出羽山北から安倍氏の故地奥六郡に移り住んでいた。この代に至って清原氏の初期から他に誇れる家風だった「同族協力体制」は捨てられて「嫡宗至上体制」へと移行し、同族すべて従者同然となり、惣領真衝への不満が充満していた。このような時、真衝の養子成衝(なりひら)の婚礼が行われることとなり、この祝賀にかけつけた同族の長老で叔母の夫の吉彦秀武(きみこのひでたけ 七十才)は朱の盤に黄金を捧げて庭前に参上した。丁度その時、真衝は奈良法師と囲碁の最中だったので見向きもしない。この傲慢無礼な態度が老骨の疳にさわって秀武は献上物を庭前に投げ散らして出羽の本拠へ帰っていった。怒った真衝は同族統制のためと早速秀武討伐に向かう。一方秀武は陸奥に居りかねてから兄に不満な清衡(きよひら 真衝の異母の連れ子)、家衡(いえひら 真衝の異母弟)の両名を味方に誘うことに成功したので、真衝は出羽に秀武を、陸奥に清衡、家衡と両軍の敵を控えて窮地にたった。このような時に源義家が陸奥の新しい国府として赴任す。永保三年(1083年)真衝は義家に取り入り支援をとりつけこうして義家は清原氏の内紛に介入し、前九年の役後二十一年にして又々戦乱の世となるのであった。ときに十一世紀の後半永保三年九月のことである。戦乱は真衝が又出羽に向かう途中で病死、ここに源義家の主導的地位は確立した。義家は清衡・家衡の降伏を許し、奥六軍を両名に折半し、北部の稗貫、紫波、岩手の三郡を家衡に、南部の胆沢、江刺、和賀の三郡を清衡に与えた。しかし、南部は最良の農耕地であるのに、北部は劣悪な地帯である。そこに両者の不和が生じた。家衡は清衡の館(江刺市岩谷堂)を急襲し、妻子同族を殺害、清衡は一人かろうじて逃れ、源義家に難を訴え支援を受けることとなる。一方家衡は出羽仙北に走り、天然の水城沼柵(平鹿郡雄物川町沼館)にたてこもる。沼柵は西側を雄物川が、東側を皆瀬川が流れ囲む平地の要塞である。ここに義家、清衡軍は数千騎を率いて家衡を攻めたが「大雪に遭い、官軍闘利を失い飢寒に及ぶ……馬肉を切り喰い、或いは太守(義家)人を懐いて温を得め、蘇生せしむ……」と、義家の軍は多くの凍死者を出し敗北した。応徳三年(1086年)のことである。
<後三年合戦絵巻から>
この話を聞いた家衡の叔父の武衡(たけひら)は、陸奥から出羽に超えて沼柵の家衡を訪れ、祝辞を述べ、更に「金沢柵というところあり、そこはこれにはまさりたるところなり」といひて「二人あひぐして沼柵をすてて金沢にうつりぬ」。金沢柵を本陣として義家軍の再攻に備える。金沢柵の中心は一名孔雀城とも呼ばれ、平地から頂上まで九一米の丘陵上にあり、遠望よく北麗を厨川が、東方は奥羽山脈、西方は羽州街道、南方は岩瀬沢が断崖を形成、総じて柵の四方断崖絶壁をなし天然の要塞となっている。
▲義家出陣
義家「武衡(叔父)相加わりぬと聞きていよいよ怒ること限り無し」「秋九月に数万騎の勢を率いて金沢の館へ赴き…」
▲弟義光の参陣・鎌倉権五郎景正奮戦す(片目かじか)
翌年寛治元年(1087年)兄義家の苦境を知った弟左兵衛尉義光(よしみつ 新羅三郎)は京の官を辞してはるばる来援する。これに勢を得た義家は軍をたて直し弟義光を副将軍として家衡・武衡のこもる金沢柵を大軍で攻めたてる。先遣隊副将軍義光ら戦うも「城中呼ばひ奮ひて矢の降ること雨の如し、将軍の兵疵を被る者甚し」相模国住人、鎌倉権五郎景正(かまくらごんごろうかげまさ)は年僅かに十六歳の若武者にして奮戦するも鳥海弥三郎(とりみのやさぶろう)の「征矢にて右の目を射させつ」すぐその敵を射殺して後、「退き帰って兜をぬぎ景正負傷とさけび仰け様に伏しぬ」同国の兵の三浦平太郎為次(ためつぐ)が土足で「景正が顔を踏まへて矢を抜かむとす」すると景正「伏しながら刀を抜き為次が草ずりを捉えて上げ様に突かむとす」為次驚きて「こはいかに何故かくはするぞ」景正曰く「弓箭に中りて死ぬるは兵の望む所なりしかでか生きながら足にて面を踏まるることはあらぬ、しかし汝を仇として我ここにて死なむ」と言う「為次舌を巻きて言うこと無し」為次あらためて「膝を屈め顔を押さへて矢を抜きつ」景正側を流れる厨川で傷を洗うとこの川から片目の石斑魚(かじか)が生まれるようになったと江戸時代の東遊雑記(古川古松軒著)は記している。この魚、明治、大正、昭和と三代の天覧を受けている。最近、川の改修によりその姿を見ることがない。
※ 近年かじかの放流事業を厨川上流で行っております。
▲義家乱雁から伏兵を知る
義家の軍は金沢柵に到着、数万期の軍勢はまるで雲か霞のように野山に満ちあふれんばかりあった。その時「一行の斜雁が雲上をわたるあり、雁陣たちまちにやぶれて四方にちりてとぶ。将軍はるかにこれを見て、あやしみ驚き兵をして野辺をふましむ」案の定、叢の中から「三十数騎の兵を尋ねえたり、これ武衡かくしおけるなり」危ういところであった。これは先年義家が関白師通に参上し、安倍貞任の攻撃を報告した時、大宰権師大江匡房(おおえまさふさ)が立ち聞きして「義家はあっぱれ器量の武士だが惜しむらくは合戦の道理を知らぬ者よの」と独り言をいったことから匡房の門をたたき、文の道に励み、多くの漢籍を読破した。義家はふと中国の古い書物に「兵野に伏す時は雁列を破る」とあったと思い出した。もしもあの匡房に文の道を学ばなかったら武衡の奇襲に遭ってやられていたと述懐したという。
▲剛勇の座・臆病の座
義家の軍団は第一の難関を突破、目指すは金沢柵である。柵はなかなか難攻不落であった。義家は奮起させるために毎日甲乙の二座を設けて、その日の働きに応じて剛勇のものを甲の座に、臆病のものは乙の座に座らせたので、各々臆病の座につくまいと必死になって戦い、「日ごと甲の座につくものは至難なりけり」ことに臆病だといわれるものが五人あったので皆はこれを歌にして囃したという。
▲源氏重代の「薄金の兜」
果敢なる伴次郎けん仗助兼(すけかね)は義家のお気に入りで、源氏重代の名高い「薄金の鎧」の着用をゆるされる。柵は壁のよう、その敵陣に接近すると敵は石弓の綱を切り落とす。「首をふり身をたわめたりけれど兜ばかりうちおとされにけり」同時に兜は吹っ飛び、もとどりの根も切れて重宝「薄金の兜はこのとき失けり」助兼これを非常にくやしがったという。
▲兵糧攻め
吉彦秀武、義家に兵糧攻めを建策「軍をまきて陣をはり…一方は将軍、一方は義光、一方は清衡、重宗(しげむね)これをまく」やがて数日後、武衡は、互いの陣から剛の者を出して一騎打ちをしようと申し入れる。武衡軍からは亀次(かめつぐ)、義家軍からは鬼武(おにたけ)、城戸前で一時間程薙刀で打合い、ついに「亀次の頭、冑着ながら鬼武が薙刀の先に懸かりて落ちぬ」あっぱれ鬼武の勝ちに義家軍歓声を上げる。しかし城中の兵は「亀次が首をとらんとて両方乱交で大に闘う」臆病の座に座っていたことを恥じていた末割四郎惟弘(すえわりのしろうこれひろ)は今日こそ剛の座につかんと最前線に出たが「かぶらや頚の骨にあたり死す」、大食後の出陣であったので首の切り口から食べた飯粒がそのまま消化されずにこぼれたという。
▲千任の口いくさ
家衡の守り役の千任(ちとう)は「やぐらの上に立ちて」大声を上げ「汝が父頼義、貞任、宗任(むねとう)を打ち得ずして故清原武則の助けを借りて打ち破ったではないか。今その恩を忘れれ、その子孫を攻めたてるとはさだめて天道のせめをかぶらむか」と罵倒した。
▲敵状偵察
「館の内食つきて男女みななげき悲しむ」武衡はやむなく副将軍義光に投降の旨を申し送るが、義家はそれを許さない。再度の申し出に義光は使者腰滝口季方(こしのたきぐちのすえかた)を送る。城戸を開き季方を迎える城中は「弓矢・太刀林のごとくしげくしてみちをはさめり」そして武衡と会見「家衡はかくれていでず」武衡なお「まげて助け給え」片時もはやく義家へ復命をと申し出る。季方「先の如く兵の中を分けて帰る時、太刀のつかに手をかけて、うちえみてすこしもけしき変わりたる事なくて歩みいでにけり」、この勇者ぶりは後々まで語りつがれる。
▲女子残らず殺す
「城をまきて秋より冬に及びぬ。寒くつめたくなりて皆こごえておのおの悲しみて…」「城中飢にのぞみてまず女、小童ら城戸を開いていでくる。軍ども道をあけてこれを通しやる。これを見て喜びてまた多くむらがりくだる」吉彦秀武、義家に進言「出てくる女子供は一人残らず殺しましょう」と、そして「殺されるのを見ればもはや城中から出ないでしょう。そうすれば城中の食糧はあっという間につき、落城する時が早まりましょう」という。将軍これを聞きて「くだるところの奴ども皆目の前に殺す」。
▲落城前夜の予言
義家の身近につかえる13才の藤原資道(ふじわらのすけみち)をある夜半義家が起こして命じるには、「武衡・家衡こよい落べし」仮屋をこわして暖をとるように伝えよと。「まことにその暁なむ落ける、人これを神なりとおもへり」遂に金沢柵は陥落、義家へ祟敬の念高まる。
▲城内地獄絵さながら
「武衡・家衡食物ことごとくつきて寛治元年(一〇八七)十一月十四日夜遂に落ち終りぬ。城中家ども、皆火をつけつ、煙の中におめき、ののしる事地獄のごとし」義家軍は場内に入り次々に城兵を切り殺していく「逃ぐる者は千万が一人なり、武衡のがれて城の中に池ありけるに飛び入りて水に沈みて顔を叢にかくしておる」を捕えられる。又城中から先に罵倒した千任も捕まる。家衡は奥六郡第一の名馬花柑子を自ら射殺して賎しい者に扮して逃走、美女は兵たちの陣へ、城兵はさらし首に、妻達も引き立てられてまさに地獄絵だった。
▲捕虜に復讐
武衡は一日だけの助命を哀訴するが、義光の同情をよそに義家は武衡を斬首に処す。次に捕えられた千任は義家の責めに一言も発しない。義家「舌を切るべし」とて一人の兵の手によって金箸で強引に引き抜かれ、後手に縛り上げられ木の枝につり下げられた。「足を地につけずして足の下に武衡が首を置けり、千任泣く泣く足をかがめてこれを踏まず。しばらくありて力つきて足を下げて遂に主の首を踏みつ。」義家これで二年がかりの愁いが晴れた。残念なのは家衡の首を見ないことだ。城内の館はすべて落ち「城のうちに伏したる人馬、麻をみだるるがごとし。」
▲家衡遂につかまる
縣小次郎次任(あがたのこじろうつぎとう)という勇者がいて城兵の逃ぐる道を知っていた。変装した家衡も遂に発見され射殺された。家衡の首を見た義家は喜びひとしお、みずから紅の絹取りて次任にかけ馬一頭を与える。「武衡・家衡の主だった郎党四十八人の首を切りて将軍の前にかけたり」
▲義家ら私闘をみなされむなしく故郷へ
義家は解文を書いて「武衡・家衡が謀反既に貞任・宗任にすぎたり。私の力をもて、たまたま打ち平ぐる事を得たり、はやく追討の官符を給わりて首を今日へ奉らん」と申す。しかし公卿せん議の結果「義家の私闘」とみなされ論功行賞無いと聞いて、「首を道に捨て、むなしく京へのぼりにけり」と詞は述べているが義家は故郷へ帰ったのである。
<その後>
役鎮定後義家は朝廷から私闘とみなされ、なんらの恩賞もないまま陸奥守は解任となって故郷へ引き揚げて行った。一方清衡は国司後任が藤原基家(もといえ)、義家の弟義綱(よしつな)……となる中で、京の摂関家藤原家へ荘園の寄進、馬の献上等を通じて接近し、緊密化を計りつつ陸奥国押領使(令外官、地方の内乱、乱行などの鎮圧の任)となった。居館を豊田館(江刺岩谷堂)から、かつての激戦場、衣川の関の近く平泉に移すに及んで奥羽支配を広げ、平泉政権が誕生し、「平泉の世紀」と呼んでよい画期的な時代を開幕するのであった。清衡は前九年の役で父経清(つねきよ)処刑時が七才、義家と共に沼柵で敗れた時三十一歳、後三年の役で勝利者となった時三十二才、平泉藤原の誕生時四十才、中尊寺金色堂落成時六十九才、死亡は七十三才であった。この時代が丁度白河・鳥羽院生の頃、二代基衝(もとひら)は保元、平治の乱の頃、三代秀衡(ひでひら)は平氏隆盛、滅亡源氏台頭時で鎮守府将軍、従五位上に叙される。四代泰衡(やすひら)に至り義経隠蔽の罪に問われ頼朝によって平泉藤原氏は滅ぶ。
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清和源氏略系図
安倍・清原・藤原三氏関係図
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