後三年の役にまつわる伝説



 
 雁行の乱れ

 源義家が金沢柵に進軍中、立馬郊附近にさしかかると、一行の雁がにわかに列を乱して飛び散りました。
 馬を立ててじっと見ていた義家は、かつて大江匡房から習った兵法を思い出し、「伏兵があるにちがいない」と、附近をさがさせたところ、果たして西沼の附近から三十数騎の敵兵を発見し、これを全滅させることができました。
 匡房の門をたたき、文の道に励んだときに習った中国の古い書物に、「兵野に伏す時は雁列を破る」とあったことを思い出さなければ武衡の奇襲に遭ってやられていたと述懐したといいます。
 


「後三年合戦絵詞」 戎谷南山筆


片目カジカ標本 金沢公民館
 
 片目のかじか
 
 後三年の役に年わずか十六歳で初陣し多くの手柄を立てた鎌倉権五郎景正は、敵に右目を射られてしまいますがその敵を射殺します。同僚の三浦為次がその矢を抜いてやろうと額に足をかけて抜こうとすると、景正は刀を抜いて為次を下から突こうとしました。
 訳を聞くと、「弓矢で死ぬのは武士の本望であるが、生きながら面を足で踏まれるとは、いかにも耐えられない、汝を仇として自分も死のうと思った。」というのです。為次は無礼をわびて改めて膝を屈してその矢を抜いてやり、厨川の清水で傷を洗ってあげました。
 この後、厨川から右目の見えない片目のかじかが出るようになり、景正の武勇に感じた珍魚として有名になります。
 片目のカジカについては、
○カジカは上流に登る性質があり、金沢の柵崖下である厨川右岸の岩などに右目が擦られるため
○目が水カビに犯されたため
等の説がありますが、はっきりしていません。 
 
 納豆の発祥
 
 後三年の役で戦いの最中、源義家が地元金沢地区の農民に豆を煮させ兵糧として供出させたところ、数日後にその煮豆がこうばしい香りをただよわせ、糸を引くようになりました。義家はこれに驚き、食べてみたところ意外においしかったため、その後も食用としました。
 これを聞いた農民達も自ら作りはじめ、後世に伝えたのが「納豆」として全国に広がったものといわれています。
 
 
 

 秋田県の特産品パンフレット より
 

 

  参考 「歴史に見る横手(横手市)」            
    「後三年の役 古戦場 平安の風わたる公園(横手市)」