金沢ささら舞保存会
 
 
 
 
 金沢ささら舞は、慶長七年佐竹義宣が秋田藩主として常州より転封になると同時に秋田に伝えられたもので、非常に由緒ある「ささら舞」です。
 近年まで、ささら舞の保存には金沢中野区や有志の方々によって行われていましたが、諸事情によりその伝承が非常に困難となってきました。
 このため、昭和四十四年に「金沢ささら舞保存会」を設立し、由緒ある郷土芸能の保存に努めています。


 


大正時代のささら舞演者の写真

 
金沢ささら舞の由来

 金沢ささら舞は、今から四百年前、佐竹義宣と共に秋田に入ってきた『茂木ささら』の伝統を伝えるもので、後三年の役の古戦場である金沢柵のほとりに伝わったものです。
 元来、ささら舞は今から九二十年ほど前、源義家が後三年の役に出陣の途中、今の栃木県芳賀郡茂木町の河井にさしかかった時、都から連れてきた愛人の長寿姫をここに留めることにして、八幡神社の社前で戦勝を祈願すると共に、別れの宴を張りささら舞を演じたのが起源であるとされています。

 長寿姫は、その後病のために義家の凱旋を待たずに亡くなりましたので、河井の人々は姫の心を察して長寿寺という寺を建ててこれを弔い、毎年八月十五日には八幡神社にささら舞を奉納して、その霊を慰めてきました。その後には天下泰平、五穀豊穣をも祈願するようになりました。

 秋田藩主の佐竹公が、まだ常陸にいた頃、小田原の北条氏の侵入に備えて、抜群の勇士百騎をこの茂木に配置していたのですが、永い守備生活の退屈しのぎに「ささら」を習い覚え、これに士気を鼓舞するような動作を含めて慰安としていました。

 たまたま、慶長七年(西暦1602年)佐竹義宣公が水戸から秋田に転封するに当り、茂木百騎も移って横手に永住しましたので、「茂木ささら」は自然に県内に伝わっていきました。
 
 
金沢ささら舞の演技
 金沢ささら舞は、もちろんこの「茂木ささら」の系統ですが、永い間にいくらかその原形を変えたところもあり、また、演技の前に独自の狂言を入れて単調な演技に変化と興味を持たせる工夫をしています。
 
演技の中心は、三頭の獅子舞で一見極めて単調な動作の繰り返しの様に見えますが、実は絶えず三者三様に変化しており、昔から一人二役をやれる者が無くなったというくらい至難な演技です。この演技全体を動かす笛もなかなか難しく全曲を吹ける者は残っていません。
 先頭の大きな唐扇は一団の旗印で、元は佐竹公の定紋、五本骨の扇に月印でした。また、頭の大きな面をつけたのは「岡ささら」と称して、福禄寿をあらわす道化役で、一面進行掛を兼ねるものですが、適任者がいないので充分な活躍は見られません。
 花笠は茂木の山の四季を表現したものです。春の桜、夏の藤、秋の紅葉、冬の松となっています。三頭の獅子が演技の中心で、赤がメス、黒と青がオスになっています。前半の演技は攻撃前進、乱軍等を意味し、後半は百花爛漫たる茂木の山々を百獣の王たる獅子が、一頭の雌獅子を中心に遊び戯れるというのどかな有様で、ここをもって天下泰平、五穀豊穣を祈願する目出度い演技とされています。
 棒遣いは警護とも言って、今ではこの棒を水車の様に回しながら通路や演技場の確保をするのが主な役目となっています。

 檀那と奴・馬で狂言もやっておりましたが、現在は伝承者がなく狂言は廃れてしまいました。その他世話役、後見等がいます。
 
 
金沢ささら舞の伝承
 この金沢ささら舞も、諸事情により昭和十五〜十六年頃から演舞が途絶えていましたが、幸い、家に残る長男だけに伝えられていたため、復活することができ、現在、「金沢ささら舞保存会」により、九月十五日の金沢八幡宮祭礼に毎年奉納されています。
 しかしながら、時代の変遷には勝てず演技の伝承にあたっては、指導者の高齢化・後継者の減少などのため、現在では小・中・高校生による伝統芸能保存活動とタイアップした形で受け継がれています。

 
 
 
参考 横手市金沢中野「ささら保存会」資料