後三年合戦

絵巻から見る後三年合戦


後三年合戦絵詞(写本・全5巻)

 後三年合戦絵詞は「後三年の役」を知ることのできる貴重な資料です。原本は、東京国立博物館の所蔵で国の重要文化財に指定されています。貞和3年(1347)に飛騨守維久という人が完成させたということです。
  全国にも模写が多いのですが、市の文化財に指定された「後三年合戦絵詞」は、金沢本町の故戎谷南山(本名亀吉)が東京国立博物館に通い精魂込めて模写したもので、昭和13年に完成した紙本巻物です。南山の本業は菓子業で、後三糖、めっこカジカ諸越など後三年の役にちなんだ新製品を数々生み出しました。南山の写本は金沢八幡宮に奉納され、現在は後三年の役金沢資料館で見ることができます。

武衡、家衡に金沢柵への移動を勧める

画面左:縁の小袖に袴をつけた烏帽子姿の男が、朱の水干姿の男と何やら熱心に立ち話をしています。向かって右が清原家衡、左が叔父の武衡のようです。沼柵から金沢柵へ移ることを勧めています。

義家、金沢柵へ出立

 陸奥守義家の館。画面右には庭の泉水、部屋の中には義家を見送る女たちが描かれています。
 中央には乗馬した義家と従軍を訴える腰の曲がった光仁、画面左には義家を待つ武者たち、また、紫垣門の外には出陣を待つ武者たちがいます。

弟義光の参陣

 寛治元年(1087)兄義家の苦境を知った弟義光は、京の官を辞してはるばる来援します。これに勢を得た義家は軍を立て直し、弟義光を副将軍として家衡、武衡のこもる金沢柵を大軍で攻め立てます。
 画面は、義光が義家と対面しているところ。
 画面右の正面陣営の中に座っているのが義家、右の方に座っているのが義光。

景正・助兼(かげまさ・すけかね)の奮戦

 金沢柵は切り立った崖に囲まれた天然の要害。景正軍は盾を並べて攻め寄せたものの、雨のように降り注ぐ矢と石弓の攻撃に敗色を濃くします。見かねた景正が陣頭に立つや、一本の矢が彼の右眼を射抜きました。画面右、岩山の後ろに見えるのは景正と、彼を介抱する同郷の三浦為次。
  画面中央、体をくの字に曲げているのは、義家お気に入りの勇士、伴助兼(とものすけかね)。勇み立って清原勢の陣地に接近したところ石弓の攻撃を受け、あわやという瞬間、頭を振って体をひねります。石は義家から賜った「薄金(うすがね)の兜(かぶと)」にあたり、兜は吹っ飛び、助兼の髻(もとどり)の根も吹っ切れてざんばら髪となりました。
  そそり立つ岩山の上の砦には板の壁が押し立てられ、そこに射込まれた矢の洪水が戦いの凄まじさを伝えています。

雁行乱れる

 沼柵を攻略した義家の本隊は、金沢柵を目指して軍を進めます。途中の旧仙南村山本地区一帯は清原軍の防衛線上にあり、義家に不意打ちをかけるには絶好の場所でした。
  清原武衡の放った伏兵は、選り抜きの猛者ばかり30騎。秋色濃いススキの原に身を潜め武器を手に義家を待ち受けます。彼らが一行の到来を察知したとき、頭上でいきなり雁の群れが乱れ四方に散ります。ほどなく人の気配がするや、馬上から矢が飛んできます。必死の応戦を試みたものの、虚をつかれた清原兵は雁行の乱れに伏兵を察知した義家の軍兵らにしてやられ、奇襲作戦は灰燼(かいじん)に帰したのでありました。

両軍勇士の一騎打ち

 義家は寛治元年(1087)の初冬、金沢柵攻めの本営を御所野に設け、同盟軍の藤原清衡、弟の義光らとともに金沢柵包囲網を敷き、兵糧攻めの策に出ました。包囲軍の総数2万に対し、すでに捨て身の清原籠城軍は家衡・武衡以下、兵士の家族も含めて3千人。戦いが停滞する中、武衡は兵達の退屈を慰めようと両軍勇士の一騎打ちを提案して受け入れられます。清原軍からは亀次が、源軍からは鬼武という何れ劣らぬ猛者が選ばれ、両軍の見守るなか闘いが始まりました。
  画面中央、薙刀を携えて対峙する二人。闘いを観戦する清原軍と源軍の中に、黒駒にまたがっている義家(右手中央)の姿が見られる。

藤原千任(ふじわらのちとう)、義家を罵倒する

 戦いのさなか、清原方では城内の櫓(やぐら)の上に登り、源義家に向かって大声を張り上げる男がいました。家衡の守り役・藤原千任(ふじわらのちとう)です。
 「汝の父・頼義は安倍貞任(あべさだとう)らを攻めあぐみ、亡き清原武則将軍の助けを借りてようやく攻め滅ぼしたのではなかったか。それなのに、その恩を忘れて子孫を攻め立てるとは何事か。きっと天罰を受けようぞ」
 これを聞き、その時の屈辱的な記憶がよみがえり心中煮えたぎる思いの義家は、郎党たちに言い放ちます。
 「あの千任めを生け捕りにする者があれば、余はその者のために命も捨てようぞ」
  画面左上、無数の矢が突き刺さった櫓の上で罵倒する千任。画面右、向かい鳩が染め抜かれた幕の内側では烏帽子(えぼし)をかぶった義家が、内心の憤怒と戦いながらいきりたつ郎党たちを静めています。

落城前夜の予言

 画面右は義家が13歳の藤原資道(ふじわらのすけみち)なる若者を夜中に突然呼び起こし、「武衡・家衡の城は今夜必ず落ちる。仮屋を壊して兵どもに暖をとるように伝えよ」と命じている場面が描かれています。
 画面中央の陣幕の袖あたりで、朱の鎧直垂を着て凛々しく立つのが下知を受けた資道。
 画面左は兵たちが戦いを忘れ、仮屋をぶち壊して火を焚いて手足を暖めている場面が描かれています。

金沢柵、陥落

 清原方の食糧は乏しくなり、武衡は義家の弟・義光を介して降伏を申し入れますが拒否されます。柵の外へ出る者を断って食糧が尽きるのを早めようとの意図で、義家らの兵は城門を開いて出てくる女や子供さえも殺してしまいます。こうして寛治元年(1087)11月14日、清原方はついに自ら金沢柵に火を放って陥落しました。
  落城のあり様を描いた画面全体に生き地獄が展開します。右手、煙の下には切腹のあとと思われる首なし死体が折り重なっています。黒煙の立ちこめる中、腕を切り落とされた者や首を切り落とされた者の死体が転がっています。

武衡・千任を断罪に処す

 捕らえられた武衡(拡大1)は一日だけの助命を哀訴しますが、義光の同情をよそに義家は武衡を斬首にしました。(拡大2)
 次に捕らえられた千任は義家の責めに一言も発せず、「舌を切るべし」と一人の兵の手によって金箸で強引に引き抜かれ(拡大3)、後手に縛り上げられ木の枝に吊り下げられました。(拡大4)

家衡射殺され、首を据えられる

 画面右は、城兵の逃げ来る道を知っていた縣小次郎次任(あがたのこじろうつぎとう)という武士に、変装した家衡が発見され射殺された場面が描かれています。
  画面中央は、次任の郎党が家衡の首を薙刀の先に刺して、義家の前に差し出しています。さらに、武衡・家衡の主だった郎党48人の首も義家の前面に懸け並べられる。
  画面左は、義家が家衡の首をみて喜び、胸の奥底から勝利の喜びをかみしめる場面が描かれている。

義家主従、故郷へ帰る

 金沢柵の落城とともに清原氏は滅びました。義家は朝廷からこの戦いの公認を得ようとしましたが、「私怨の戦」として一蹴されたばかりか、「平穏を乱した罪」に問われてむなしく故郷に帰ります。
  画面中央右寄り、黒い水干姿で白馬にまたがり絹傘を差しかけているのが義家。故郷に戻るべく、山並みの中を一行は進みます。
  前九年の役以来、40年近くに及んだ奥羽の戦乱の時代はここでひとまず幕を閉じることになります。


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