後三年合戦(ごさんねんかっせん)は、日本の歴史上重要な戦いとして位置づけられています。
後三年合戦の時期は日本史上、古代と中世の分かれ目にあたります。
勝利した清原(藤原)清衡は、その後平泉に移り奥州藤原氏黄金文化の基礎を築きました。
古代から中世へ。日本史上の大転換が成しとげられた舞台は、ここ横手にありました。
後三年合戦は、前九年の合戦の約20年後に起きた清原氏の内紛に端を発した戦いのことをいいます。
清原氏の親戚にあたる吉彦秀武の政略により、清原真衡と清原清衡・家衡が兄弟同士の争いを始めました。真衡の急死により事態は収束したかのように思えましたが、源義家が清原氏の土地分配に不平が出るように仕組みました。これが清衡と家衡の争いのきっかけとなりました。清衡には義家が味方につき、家衡には清原武衡が味方につきました。これが源氏対清原氏の構図となっています。
沼柵・金沢柵の戦いの後は、義家の戦いが朝廷から私戦とみなされたことから、源氏は奥州に勢力を張ることができず、最後に生き残った清原清衡が藤原清衡となり、平泉文化の基礎を築くことになります。
前九年の合戦は、平安時代の後期、岩手県北上盆地を中心に起こった源氏と安倍氏との戦いのことをいいます。陸奥奥六郡(岩手・紫波・稗向・和賀・江刺・胆沢の6郡)を任されていた安倍氏は、衣川以南まで勢力を拡大してきたことから、朝廷は源頼義・義家に追討の命を出しました。
一旦朝廷の恩赦があり戦いは収束しましたが、源氏の策略により安倍氏は戦わざるを得なくなりました。源氏の理不尽な策略のため、安倍氏は奮闘し戦いは長引きました。そこで源氏は出羽山北の清原氏に助けを請いました。清原武則等の参戦によりこの戦いは源氏の勝利となりましたが、清原氏がその後陸奥出羽の支配者となりました。
前九年合戦から、中尊寺の造営着手まで
年 | できごと |
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永承6年(1051) | 前九年合戦起こる |
康平5年(1062) | 源頼義の援軍要請を受けて清原氏参戦 小松柵、衣川関で清原、源氏連合軍が勝利。 9月15日 連合軍が厨川柵を包囲して陥落させる。 安倍貞任斬死、藤原経清斬首(前九年合戦終わる) |
康平6年(1063) | 清原武則が鎮守府将軍に任ぜられる |
永保3年(1083) | 清原真衡が一族の長老吉彦秀武の怒りをかい対立 真衡が秀武を討つため出羽に出兵するが、 清原清衡・家衡が真衡の館を襲撃する。 秋、真衡が急死。源義家が奥六郡を清衡・家衡に分け与える。 |
応徳3年(1086) | 奥六郡の配分をめぐり家衡と清衡が対立 家衡、清衡の館を襲い妻子同族を殺害。 義家・清衡連合軍、家衡の本拠地沼柵を攻撃するが大敗する。 |
寛治元年(1087) | 8月 義家の弟義光が都から駆けつけ参戦。 9月 義家・清衡連合軍が沼柵から金沢柵に移った家衡軍を包囲。 兵糧攻めに持ち込む。 |
寛治2年(1088) | 義家、陸奥守を解任される 清衡、奥六郡を与えられて陸奥押領使に任ぜられる (この頃、藤原の姓を名乗る) |
長治2年(1105) | 平泉に移った清衡、中尊寺の造営に着手する |
清原光頼(きよはら みつより)~最高級の姓(かばね)をもつ俘囚主(ふしゅうしゅ)~
前九年の役の雄、清原武則の兄で、横手市大鳥井に本拠地をもつ豪族。
安倍氏に苦戦を強いられた源頼義(みなもとのよりよし)は安倍氏を討つ現地勢力を味方につけようと「出羽山北(でわさんぼく)の俘囚主(ふしゅうしゅしゅ)清原真人(まひと)光頼・舎弟 武則(たけのり)」(真人とは八色の姓のひとつで皇室に近い氏に与えられる姓)に白羽の矢を立てました。
しかし、近隣の豪族として安倍氏と交わりがあった清原氏は数年にわたる頼義の贈り物攻勢にもかかわらず、執拗な協力要請を拒否し続けました。
しかし、「協力に応じてくれれば輩下に下る」という懇願に負けてついに挙兵。弟の武則が総大将として参戦することになりました。
清原武則(きよはら たけのり)~出羽の一豪族から鎮守府将軍へ~
清原光頼の弟で、源頼義の度重なる要請を受けて前九年の役に参戦。源氏の兵3千に対して清原軍1万を率い、源氏の敗色が濃厚だった戦いを一気に逆転させました。勇猛果敢で知られる武則は、大胆な人海戦術と奇襲作戦で安倍氏の城砦を次々に陥れ、難攻不落といわれた厨川柵(くりやがわのさく)(盛岡市)でも必至の抵抗を試みる安倍軍を攻め滅ぼし、長年にわたる戦いを終結に導きました。
勝ち戦の功労者である武則は源頼義・義家父子を上回る論功行賞(ろんこうこうしょう)として朝廷から鎮守府将軍に任ぜられました。
清原武貞(きよはら たけさだ)~陸奥全土を支配下へ~
清原武則の嫡男で、前九年の役では第一陣を率いました。
前九年の役の後、安倍軍の知将、藤原経清(つねきよ)の妻を後妻として引き取りました。
これを契機に安倍氏の旧領である奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手)を自分の所領とし、陸奥全土を掌握するに至りました。
清原真衡(きよはら さねひら)~強引な独裁主義で内紛を招く~
清原武貞の嫡男。一族の内紛は、一族の長老である吉彦秀武(きみこひでたけ)を、囲碁に夢中になっていた真衡がないがしろにしたことから起こりました。日頃から真衡の専制的なやり方に不満を抱いていた秀武は激怒。その態度が「反抗的だ」として真衡が挙兵して後三年の役が勃発しました。
秀武が真衡の弟・清衡、家衡をけしかけて真衡を襲わせようとしたのに対し、真衡は新任の陸奥守、源義家を味方につけて対抗しましたが、真衡の急死で戦いは一旦収まりました。
真衡の死については、病死と伝えられていますが、実は前九年の役以来、清原一族に怨みを抱く源義家が謀殺したのではないかとの説もあります。
清原家衡(きよはら いえひら)~清原一族最後の正嫡(せいちゃく)~
清原武貞とその後妻の間に生まれました。真衡の死後、国司として奥六郡を召し上げた源義家は、六郡の内、肥沃な南の三郡を清衡に、北の三郡を家衡に与えるなどして家衡を冷遇しました。清原氏の正統を自認する家衡は、これを不服として清衡殺害を企てたものの失敗。清衡が義家と組んだことを知った家衡は自分の根拠地である沼柵(ぬまのさく)(雄物川町沼館)に戻って義家・清衡連合軍を迎え撃ち、これを撃退しました。
さらに、叔父の清原武衡の進言で天然の要害である金沢柵に移ってからも、数万の大軍に包囲攻撃されながら善戦しましたが、最後には兵糧攻めにあい、ついに落城。家衡、武衡ともども敵の手に落ち、ここに清原氏の正統は絶えました。
吉彦秀武(きみこ ひでたけ)~長老の軍略で一族滅亡へ~
清原武則の女婿(むすめむこ)で、前九年の役でも活躍した一族の長老。
もともと同族の連合体として宗家・分家に上下の別なくやってきた清原氏でしたが、真衡の代になると様変わりしたことが秀武には面白くなかった。真衡の非礼な態度に日頃の不満が爆発。清衡、家衡を味方につけて真衡を葬ろうとしましたが、真衡が死んで家衡VS清衡・源義家の戦いになると義家を通じ、金沢柵攻防戦ではこの時代にあっては画期的ともいえる兵糧攻めを提言しました。
さらに、この効果を早めるため、食糧が乏しくなって柵の外に出てきた女子供を皆殺しにすることも進言したといわれています。結局、彼の軍略が功を奏し、一族の長老ながらも清原氏の滅亡に手を貸すことになりました。
藤原清衡(ふじわら きよひら)~強運と才覚で平泉に栄華の礎を築く~
父は安倍軍の参謀長ともいうべき藤原経清(つねきよ)。前九年の役の敗戦で父が刑死した後、母とともに仇敵の清原氏に引き取られ、屈辱と忍耐の少年時代を送りました。
後三年の役では、一旦血のつながりのない兄・真衡を異父弟の家衡とともに討とうとしましたが、真衡が急死すると家衡との争いに至り、妻子を殺されました。
この後、源義家と手を組み、金沢柵で家衡を討って清原一族を滅ぼしました。結果として、清原氏・安倍氏の遺領を引き継ぐことになった清衡は、姓も清原から亡き父の藤原に変え、平泉に藤原四代にわたる栄華と平和の礎を築くことになります。
源義家(みなもとのよしいえ)~父子二代にわたる奥州への野望~
源頼義の嫡男。八幡太郎(はちまんたろう)の名で、当時「天下第一武勇之士」と謳われた人物ですが、父子二代にわたる奥州への野望がこの地を戦乱の渦に巻き込む結果となったことは否定できません。父・頼義とともに戦った前九年の役から20数年後、積年の清原氏への怨みもあって一族の内紛に介入し、これを金沢柵で滅亡させました。
しかし、この戦いを「私戦である」とみなした朝廷からは何の恩賞も与えられなかったばかりか陸奥守(むつのかみ)の任まで解かれてしまいます。義家はやむなく合戦に動員した東国の武将たちに私財を投げ打って論功行賞(ろんこうこうしょう)を行い落胆のうちに帰京しましたが、このことでむしろ源氏の権威は高まり、四代後の頼朝の時代になって平氏打倒に役立つことになったと伝えられています。
後三年合戦絵詞は「後三年合戦」を知ることのできる貴重な資料です。
原本は、東京国立博物館の所蔵で国の重要文化財に指定されています。
貞和3年(1347)に飛騨守維久という人が完成させたということです。
全国にも模写が多いのですが、市の文化財に指定された「後三年合戦絵詞」は、金沢本町の故戎谷南山(本名亀吉)が東京国立博物館に通い精魂込めて模写したもので、昭和13年に完成した紙本巻物です。
南山の本業は菓子業で、後三糖、めっこカジカ諸越など後三年合戦にちなんだ新製品を数々生み出しました。
南山の写本は金沢八幡宮に奉納され、現在は後三年合戦金沢資料館で見ることができます。
朝廷は、この戦いを義家の私戦だとして、観賞はもとより戦費の支払も拒否しました。このため、義家は主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出さざるを得なくなりましたが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後の頼朝による鎌倉幕府創建の礎になったともいわれています。
また、清衡は清原氏の旧領を全て手に入れることになり、奥州の覇者となりました。そして、清衡は実父である藤原経清の姓「藤原」に戻し、平泉に移り住み、平泉黄金文化の基礎を作ることになります。このように、後三年合戦は、世界遺産登録を目指している「平泉文化」のルーツとなっているのです。
A:今から900年前頃、源氏が横手に本拠を構えていた清原氏を攻めた戦いで、貴族の世界から武士の世界へ変わることに影響を与えた日本史にとって大きな戦いです。
A:清原清衡に源義家がつき、清衡の弟である清原家衡に叔父の清原武衡がついて、清原氏が分裂して戦いが起きました。
A:源義家が清衡に肩入れして、家衡を怒らせたためです。義家は、清原氏の嫡宗(総本家のあるじ)清原真衡の遺領を清衡と家衡に二分しましたが、清衡に有利な土地分配をしました。
A:沼柵(横手市雄物川町)と金沢柵(横手市金沢)です。いずれも家衡が柵にこもって、清衡・義家連合軍を迎え撃ちました。
A:清衡は姓を藤原に改め、平泉に移り中尊寺や金色堂を建立し、仏教の教えによって争いのない平和な世の中をつくろうとしました。義家は、朝廷から私戦とみなされ恩賞ももらえず、東北から離れました。しかし、子孫である源頼朝が鎌倉幕府をつくり、武家の世の中をつくりました。
源義家が金沢柵に進軍中、立馬郊付近にさしかかると、一行の雁がにわかに列を乱して飛び散りました。馬を立ててじっと見ていた義家は、かつて習った兵法を思い出し、「伏兵があるにちがいない」と附近を捜させたところ、三十数騎の伏兵を発見し、これを全滅させることができたといわれます。
わずか16歳で初陣し、多くの手柄を立てた鎌倉権五郎景正は、敵に右目を射られてしまいますが、その敵を射殺します。同僚の為次がその矢を抜いてやろうと額に足をかけたところ、景正は刀を抜いて「生きながら面を踏まれるのは耐えられない」と為次を下から突こうとします。為次は無礼を詫びて、改めて膝を屈してその矢を抜いてやり、景正は厨川の清水で傷を洗いました。その後、厨川から右目の見えない片目のかじかが出るようになり、景正の武勇に感じた珍魚として有名になります。
後三年合戦のとき、源義家が農民に煮大豆を差し出させたところ、農民たちは急ぎのために入れ物が間に合わず、俵に詰めて差し出しました。これが数日立つと、香りを放って糸を引くので、食べてみると意外においしかったため食用とし、農民たちもやがてこれを知って、自らも作って後世に伝えたといいます。